写真集「雄飛」いよいよ完成!!

朝日新聞「神風」号

所沢飛行場に夜間着陸した朝日新聞「神風」号の雄姿。1937年4月、朝日新聞「神風」号がわが国を出発し、未曾有の短時間でロンドンに到着した世界的事件で世間は沸き立っていた。この飛行機は純国産機であり、往路は新記録の樹立と親善訪問の目的を果たし、帰路は、英国国王ジョージ6世の戴冠式の映画フィルムを空輸することに使用され、単なる冒険飛行ではなく、完全な実用飛行に使用できる事が証明された。

朝日新聞「神風」号

アストラトーレス2号飛行船

フランスのアストラ社(パリ)製造になるスペイン人トーレス設計の大型飛行船で、大正11年10月に所沢飛行船格納庫において海軍向けに建造された。特徴は気嚢の断面がクローバー形になっていたことである。通称、AT飛行船と呼ばれ、フランスから船で運ばれ所沢で組立られた。陸軍飛行場で海軍の飛行船が作られたことは極めて異例のことだが、霞ヶ浦のツェッペリン格納庫完成前に日本に到着し、たまたま所沢の飛行船格納庫が雄飛号の破損で空いていたため、ここで組立てが行われたもの。

アストラトーレス2号飛行船

奈良原式2号機(民間)

海軍の奈良原三次技士は新宿角筈の自宅庭内に飛行機製作所をつくり、1号機の失敗を活かしてノーム50HPエンジンを装備する奈良原式2号飛行機を製作した。明治44年5月、所沢試験場に運び込まれた2号機は5日、奈良原技士の操縦で高度約4m、距離約60mを飛行、国産機による初めての飛行を記録した。(但し、大阪では明治44年4月24日に森田新造氏が製作した単葉機が高さ1〜2mで距離約80mを飛んでいるが、その後5月22日に見物客の少年を怪我させたため飛行を止めてしまった。)左より2人目が伊藤音次郎操縦士、3人目が白戸栄之助操縦士、4人目が奈良原三次男爵。

奈良原式2号機(民間)

甲式4型(ニ式29C)戦闘機

大正13年から戦闘機部隊に配備され始めたニ式29型は、甲式4型戦闘機として陸軍の代表的な戦闘機となった。満州事変が起ると外地派遣戦闘機部隊の主力として前線に送り込まれたが、本機が得意とする第一次世界大戦のような1対1の空中戦は殆どみられず目立った活躍はしないままだった。

甲式4型(ニ式29C)戦闘機

モラン・ソルニエA1型機

陸軍が大正11年にフランスから5機輸入したパラソル・ウィング形式の練習機で、215km/hの最大速度を誇ったモラン・ソルニエ27/29C1戦闘機の性能を落した練習機だった。エンジンが160HPから120HPに改められていたので性能的には魅力がなく、やがて全機民間飛行学校に払い下げられた。エンジンはルローヌJB空冷式回転星型9気筒120HP、全幅8.72m、全長5.70m。

モラン・ソルニエA1型機

陸軍九一式一型戦闘機

陸軍は昭和2年3月、三菱、川崎、中島に新戦闘機の試作を発注した。三菱、川崎がドイツ風の水冷式エンジンを搭載した角張った機体を作ったのに対し、中島はフランスから招いたマリー主任技師、ロバン技師の指導を仰ぎつつ、大和田繁次郎、小山悌両技師が協力してNCと呼ばれる空冷式エンジン装備のパラソル・ウイング式単葉機を昭和3年5月に完成、続いて2号機を6月に完成させた。昭和6年に制式採用されるまで、さらに5機が追加試作されている。写真は九一式一型戦闘機。「愛国」は民間から陸軍への献納機を表わす。

陸軍九一式一型戦闘機

三菱鳶型偵察機

陸軍は大正14年11月に三菱、川崎、中島、石川島の4社に対して偵察機試作の設計を求めた。その結果、提出された設計図等を審査し、翌年8月に中島を除く3社に2機ずつの試作を発注した。写真は三菱が試作した鳶型でドイツ人バウマン博士の指導を得て昭和2年7月に完成した。右から2人目が麥田平雄大尉(後日少佐・退官)。このとき試作された機体はいずれも所沢で評価試験が行われた。

三菱鳶型偵察機

甲式1型練習機(ニューポール81E2型)

三菱内燃機製造がライセンス生産した国産機・甲式1型練習機。右後方に見える大型複葉機は日本最初の大型夜間爆撃機となった丁式2型爆撃機ファルマンF60ゴリアト。陸軍が初めて大量に使用した標準型練習機。全幅9.2m、全長7.2m、最大速度130km/h、エンジンはルローンC空冷式回転星型9気筒80HP。

甲式1型練習機(ニューポール81E2型)

会式5、6号機

会式5号、6号機は同一の設計で製作され、大正2年秋に5号機が所沢試験場で、6号機は大正6年に所沢の砲兵工廠で完成した。どちらも同じデザインなので、写真から5号機か6号機かを判別するのは難しい。

会式5、6号機

※無断転載・複製を禁じます

ページ先頭へ